兼濱 清周 (かねはま きよちか)

1951年12月15日  疎開先の宮崎県にて生まれる
1960年8月      家族と共に沖縄に戻る
1973年2月      琉球大学短期大学部 商学科中退
1973年4月26日   長野県の刀匠 故宮入清宗師に入門
1979年1月      文化庁より「作刀許可」がおりる
1982年6月      修行を終え独立
1983年10月14日  「日本刀鍛錬所」を沖縄県大里村に開設
1996年6月      敷地内に展示場開設

兼濱 淳子(かねはま じゅんこ)

1957年6月4日   沖縄首里にて生まれる
1978年7月      短大卒業後 語学留学で渡米
1980年8月      帰国後就職
1984年5月      結婚退職
1999年5月      沖縄県工芸指導所にて漆工の研修を受ける
2000年4月      研修終了し清周と共に製作を開始する
   (平成5年〜平成13年頃の写真です)

●刀に対する思い
私は22歳の時刀匠の下に弟子入りし、31歳で独立が許され日本刀の鍛錬場を開き今日に至っておりますが、日本刀の文化は人生の糧と成りえるものだと感じてまいりました。そして、「私の住む沖縄で日本刀文化を残すことをライフワークとしたい」という強い思いにとらわれるようになりました。 刀匠である私と伴侶で作る作品に対して関心をもって戴ければ幸いに存じます。 
「玉鋼鍛造切り出し小刀漆変り塗り」という作品 は、錆びる性質のある鉄を錆びにくくするために漆を「焼き付け」をするという昔の技術を加味しました。切り出し小刀という日常使用する道具に漆を加飾することに意味がないと思われるかもしれませんが、玉鋼という貴重な日本刀の地鉄を使っていることで意味があると私は思います。そして、使い捨ての時代から引き継ぐ時代への転換も少なからず意識しております。
兼工房を立ち上げたのは、日本刀を作り続ける為と日本刀文化を残すための生活の糧を得る手段であります。そのなかで日本刀の地鉄である玉鋼にこだわる作品づくりを心がけていくことと、日本刀文化とも深い関わりのある漆工芸が沖縄では盛んであり、それにもこだわりをもっていくことを基点にして作品作りをしていきたいと考えています。
日本刀の文化に馴染みの少ないこの沖縄で日本刀文化を残すことは、大変厳しいものがあることをここで18年間刀を作り続ける中で感じてまいりました。それは日本刀を作るだけでは生活が成り立たないということでもありますが、そのような状況の中で自問自答していて気が付いたことは、日本刀という完成した作品だけが大事ではなく、玉鋼を鍛えて日本刀として完成するまでのプロセスもまた大事ではないかという事です。

●沖縄と私
私は小学3年生の夏、1960年沖縄の大地に足を置きました。それまでは沖縄からは本土と呼ぶ宮崎県で生まれ育ったのであります。両親は沖縄出身であり、若くして本土で仕事をしていて、戦争の際に宮崎県に疎開をしていたのであります。
私がなぜこのような項目を設けたかともしますと、所謂、私の帰属意識と言うものの目覚めについて語りたいが故であります。それは私の沖縄に対するこだわりをも意味しますし、私の日本刀文化を通して沖縄に対して貢献したいという思いでもあります。
1971年、私は1浪して地元の大学に入りました。高校を卒業した1970年頃は、社会状況に関心を持ち積極的に活動する若者がいました。高校の卒業式が無かったことを記憶しています。 沖縄の社会状況はベトナム戦争の前線基地という異常な状況の中で、全軍労(基地の中の労働組合)は【基地撤去解雇反対】を叫んでいました。{矛盾}が、私の心の中で沖縄を理解することから離れていきました。うまく表現できないが、生まれて10年を経てさらに10年の成長期間が、私の帰属意識を意識させるほどのものが沖縄にはありました。{矛盾}だらけの沖縄を客観視、傍観視する自分があった。{矛盾}は自分の中にもあった。青春とはそうゆう時なのかもしれないが苦しかった。自分が気違いだと思っている気違いはいるのかと酒の席で先輩に問いかけたのもそうゆう時期でありました。
そのような時、日本刀との出会いがありました。
同級生の多くは本土の大学を目指していました。私は沖縄を離れようとは思いませんでした。しかし苦しい思いの中で、日本刀との出会いの中から自らの活路を見だすべく刀鍛冶の世界に入りました。沖縄を離れて本土の長野県に行きました。
そこで、私の沖縄に対する帰属意識の目覚めを体験するとは夢にも思いませんでした。
長野県に八千穂という所があります。弟子入りして何年目かの冬に、仕事道具の手槌や向う槌の柄の材料である(たも)材を取りに行った時のことであります。弟子仲間の一人との会話の中で、君たちは(沖縄の人)復帰、復帰と言うけれど君が着けている服は米軍の払い下げじゃないかと言われました。私が身に着けていた服は米軍の払い下げの防寒具でありました。しかし、その一言が、私が一瞬にして沖縄を理解することとなりました。私が育った沖縄が好きになりました。矛盾だらけの沖縄が好きになりました。
沖縄では、学生運動をしている学生の民青であろうと核マルであろうと私自身も米軍の払い下げのHBTを着ていました。生活そのものが米軍の基地と密接に関係していました。だから、沖縄の人々は、生きるために米軍の払い下げであろうと米軍からの流れであろうと使うわけであります。それを当たり前の事として生活してきた私に(沖縄の人)、彼はその矛盾を指摘したのであります。私の頭から血の気が失せる思いをしました。と同時に、矛盾の生活をさせられる沖縄の人々に対して愛しい思いが芽生えました。矛盾のある生活は沖縄の人々が望んだ生活では有りません。日本という国が、沖縄に科した体制なのであります。今でこそ、日米安全保障条約の中で受け入れた米軍基地の70数パーセントが沖縄にあることが知らされています。私に沖縄の矛盾を指摘した弟子仲間の住む地域には身近に米軍基地など無いのであります。本来ならばその痛みの多くを背負った沖縄は、感謝はされても、矛盾した生活を平気でしているばか者扱いは出来ないはずであります。
でもそれは変ってはいません。沖縄に住むことは、その矛盾からは離れることは出来ません。しかし、人間が生きていく事の意味を考えることのできる一つの場所なのかも知れないと思います。だから沖縄に多くの人々が集まって来るのかも知れません。私自身も心の中で葛藤を繰り返しながらも沖縄が好きであります。 だから、独立が許された時、沖縄に帰る事に躊躇はしませんでした。

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