●たたら
○たたらとは?
 踏鞴(たたら)とは普通、砂鉄と木炭を使い玉鋼を作り出す日本独特の製鉄技術のことを言います。ときには「高殿」(たたらと読みます)と書いて炉など設備一式を納めている建物の意味に使うこともあります。
 「たたら」という語がどのようにして生まれたのかはよく分かっていませんが、昔は風を送る「ふいご」のことを「たたら」と言っていたからだとか、朝鮮半島の多大浦(ターテポー)という所がありここから日本に鉄器が伝わったと言う説から、多大浦は日本語で「たたいうら」と発音され、それが「たたら」になったと言う説。また中央アジアでタタール人が行っていた製鉄技術が半島を経てわが国に伝えられ「タタール」が「たたら」になまったとからだといったように諸説あります。

○たたら製鉄の起こりと発達

 日本に鉄や鉄製の道具が伝わってきたのは弥生時代のことです。人々はこれを使えるようになって稲つくりを始めました。幸い日本ではあちこちで砂鉄が取れたので、砂鉄を使って鉄を作る独特の技術が発達していったのでしょう。
 日本の鉄つくりの中心は、はじめ北九州でした、その後中国地方に移っていきました。室町時代までは屋外で精錬する野たたらが一般的に行われていました。それもふいごが無い初期には自然の風が強く吹き上げる山の斜面などに炉を作って作業しました。しかし、自然の風では能率が悪かったので、ふいごが考案され量も増え品質も向上しました。
 江戸時代になると「高殿」と書く建物の中に炉を納めて屋内作業をするようになりました。そしてふいごも天秤ふいごと呼ぶ大型のものに変り、地下の水気や湿気を防ぐため大仕掛けの構造を作るようになったのでした。
 その後、大正末に一度たたらの火は消えてしまいますが昭和8年に「靖国たたら」が島根県に設立されます。これは軍需により再興されたものです。ここで生産された玉鋼は東京九段の靖国神社に送られ、そこに設けられた5つの鍛錬所において作刀されました。終戦までに約8000口の日本刀が作られたとされています。
 しかしこの靖国たたら以後玉鋼はほとんど生産されず当時の残存分も昭和40年末には消えていきます。そこで昭和52年10月に「日刀保たたら」が設立されました。日刀保たたらは「日本刀美術刀剣保存協会」が文化庁と日立金属株式会社の協力のもとに、旧靖国たたらの高殿と炉床に修復を加え、付属施設を新設して設立されたものです。ここでは現在も玉鋼が生産されており、それをもとに全国の刀匠の皆さんが作刀に励んでみえます。

○砂鉄はどのようにして集めていたのか?
 中国地方の山々には、花崗岩が風化してしまって土や砂になっている所が大変多くあります。この土砂の中に鉄がおよそ約1%含まれています。
 昔は「かんな流し」と言って、この土砂を崩して川の流れに入れ。水の中で砂鉄と土砂の比重の違いをうまく利用し砂鉄を集めていました。

○たたらにおける鉄作り
 鉄作りはまず丸一日かけて粘土の炉を作ることから始まります。炉が出来ると薪を燃やして乾燥し、その火種に木炭を入れ風を送って炎を上げ、砂鉄を入れます。そして日刀保において「砂吹き」と言われる段階に入ります。三日か四日の間、約三十分ごとに砂鉄と木炭をかわるがわる炉の中に入れていくのです。そうしていると燃える木炭から一酸化炭素のガスが発生し.磁鉄(磁鉄鋼と言って鉄と酸素が化合してい)している酸化鉄です)から酸素が取り去られて鉄になるのです。このことを還元作用と言います。
 たたらの作業は村下(むらげ)と呼ばれる技師長が中心になって進められました。村下は砂鉄を入れる傍ら.炉の状態を観察し燃え上がる炎の色によって作業状況を判断していきます。
 一回の操業のことを一代(ひとよ)と呼び、この間に使う砂鉄の量が10〜12トン、木炭が12〜14トンという膨大な量でした。そして炉から「けら」(鉄・鋼鉄・ずくなどの入り混じった巨大な鉄塊)を取り出します。この作業を「けら出し」といいます。これが約2トン。このけらを砕き割って選び出される玉鋼はわずかに800キロという少なさでした。
 労働が大変激しく作業中は不眠不休という作業にもかかわらず、大量生産出来ないため鉄はとても大切にされました。